自分の身体に起こってくる現象について、身体をじーっと感じていたら、私自身が「そうしたかった」のだと思えました。
全ては「私がそうしたかった」のだと。
自分の心と身体に溜め込んだものを、そこを通じてそういう方法で出していること。
その部分は、私のその意志を受け入れてくれて、犠牲になってくれてる…そう思った時に、ごめんなさい!という想いとありがとう!という想いになりました。
そう思えた日、友人親子と待ち合わせした図書館に行くと、その子供さんが、「風の谷のナウシカ」の絵本を広げていました。
横から見せてもらうと、ちょうど感じた事と重なって、泣きそうになっちゃった(涙)
そして、私が好きで、以前よく読んでいた野口整体の野口晴哉氏の奥様の書かれた子育ての本。
最近、気になってまた開いてみたら…
自然の経過について書かれた箇所に目が止まりました。
そのままの自然の完璧さ。人の身体も自然農と同じなのですね☆
心が、余計な事をしないで(求めないで)不安にならずに自然の経過を待っていられるのは、そのありのままの有り様をよく見ていて、なぜそうなっているのかを理解しているからこそなのだろうなぁ〜と思ったりしました。
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「それはオデキとかムクミとかだけを見ているからだ。そういうものを造る体の改革を行っているその力を見ていれば長くはない。
あなたは自然に経過することは長くかかるつもりでいるが、僕は余分なことをして、自然の調子を乱しているよりも、ずっと単純で早く経過するものと思っている。
しかし、余分な波風を作って待っていたって、それは自然の経過とは言えないよ」
それでは余分な波風って何だろう。
漠とした不安―
「このまま放っておいて大丈夫かしら」
「もしかしたら××では…」
おまけに、他人の心ない親切ごかしの言葉が拍車をかける。
「万一ということがありますからね」
「手遅れになったら大変ですよ」
すると、もう何かしないではいられなくなる。
検査も、予防も、いろいろな処置も、そういう不安から出発している限り、生命の自然を見失っているといえないだろうか。
四年ほど前、オリエント・ウエスト誌に、トム・パーキンソン氏が「現代に於ける健康増進のシステムが、何らかの力や形式をプラスしてゆくのに対して、マスター野口の行うことは“加える”よりも”引く“という方法によって目的を達成しようとしている」と言ったのは、観るところを観ていると思う。
“引く”とは、余分なものを一つ一つ捨てて“無”に還ることである。
“無“とは自然、人間本来の気の流れに心身を委ねることであろう。
野口昭子著
「子育ての記」
全生社 より転載
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ナウシカは、青い木々の間を歩いていきました。
大きな木は、かたく冷たく、まるで石のようです。
そっと耳を押しあてると、水の音が…。
「枯れて、石のようになっても、水を通しているんだわ。」
天井から、砂の様なものが流れ落ちてきました。
石になった木が砕けて、降り積もっているのでした。
ナウシカは、きらきら光るかけらを手にとりました。
ぱりーん。
かけらは、金属のような音を立てて崩れ、砂になります。
「井戸の底の砂と同じ…」
その時、ナウシカには、はっきりと分かりました。
腐海は、人間が汚した世界を綺麗にするために生まれたのです。
腐海の木々は、汚れた土や水の毒を身体に取り入れ、地下で、こんなに綺麗な結晶にしているのです。
蟲たちは、その森を守っていたのです。
〜風の谷のナウシカより〜